黒川紀章。1934年名古屋市生まれ。京大建築学科を経て東大大学院博士課程修了。 26歳で建築の理論運動メタボリズムグループを結成、世界にデビューした。その後、 機械の時代から生命の時代への変革を一貫して主張し、 その活動は世界20ヶ国に及び、 世界各地で完成した作品は高い評価を得ている。この業績に対し、海外ではフランス建築アカデミーゴールドメダル、 フランス芸術文化勲章を受賞、国内では高村光太郎賞、毎日芸術賞、日本建築学会賞、日本芸術院賞他多数受賞。 主な作品は、国立民族学博物館、奈良市写真美術館、 和歌山県立近代美術館・博物館、愛媛県総合科学博物館、 ソフトピアジャパンセンター(岐阜県)、日独センター(ベルリン)、パシフィック・タワー(パリ)など。

■エコ・メディア・シティ構想

設計者はマレーシア政府に、乱開発をされる前にある構想を提唱した。 それがエコ・メディア・シティ構想であり、KL首都回廊構想である。 その構想は、KLから新空港までの間にロジテック・インフラ、情報インフラ、そして生態系インフラを整備することによって21世紀方のまったく新しい実験都市を作ろうとした提案だった。

■マレーシアのアイデンティティ?
森と空港の共生

100kuの空港周囲は、将来へ向けて人工的に熱帯雨林の再生が実験されることになっている。 日本では人工的に苗木から30mの樹木になるまで、75年〜100年の歳月がかかるが、マレーシアではなんと20年で可能なのだ。この点が人工的な森づくりの発想の実現性を物語っている。 新空港の内部、メインターミナル、コンタクトピアの間、サテライトの中庭にも小さな熱帯雨林を作っている。これもその1つの提案。

■超高速交通体系の形成
HSSTの出現!!

どうやら2025年までに世界にまったく新しい超高速交通体系が形成されるのは間違いないらしい。 そのために、新空港は今回のフェーズの完成で4000mの滑走路2本と、成田空港を上回るMTBが完成した。2020年までに年間旅客数12500人処理が可能な空港となり、世界最大級の国際ハブ空港を目指している。 超高速交通体系とは、マッハ2〜3.5、座席数300席〜500席のHSST(超高速航空機)が出現する。 この国際ハブ空港は最低4000m滑走路4本、できれば5本と、そこからの条件の近・中距離国際線への乗り換えと国内線への乗り換え機能をもち、その乗り換え時間を30分程度とする。 日本には、将来への国際戦略はまったく存在しないから今からどうにもならない。

■屋根に注目!
マレーシアの伝統を抽象化

MTBの構造は、円錐形の柱とHPシェルの屋根で構成されている。コンペの段階より最終的にこの構造方式にするまでには、いくつかのプロセスがあった。 特にMTBは、空港に着陸して到着ロビーに到るまでの動線をいかに短くするかが問題。 つまりMTBの奥行きをどのように短くするかが問題だった。 また、ショッピングや、エアサイドホテル、休養、待合い、会議、食事など、これまでのMTBにはない機能が求められる。 構造方式として、関西国際空港のような大スパンでエアサイドとランドサイドとの間を無柱空間とする案は一見プラニングに見えるが、スパンを決めた後の変更は難しい。グリッと方式による構造方式は、MTBの縦・横の調整は、単位の追加によって容易となる。 円錐柱とHPシェルによる構造方式の発想はできる限り抽象的な形態で、いかにしてマレーシアの伝統文化、イスラム文化を表現するか、アブストラクト・シンボリズムがテーマでもあった。 CP、SATの構造はマレーシアの伝統的な住宅様式である、カンポン・スタイルの屋根を抽象的に引用している。柱はパイプ構造による樹木をイメージした構造となっている。

■マハティール首相との相違?
色の問題

とにかくどでかいこの巨大空港は、マスタープラント基本設計に1年半、工事に2年半と、その巨大さ、複雑さ、先端性にもかかわらずきわめて短期間の設計であった。マスタープランにおいて、設計者は4つの案を提案した。 A案:関西空港タイプの大スパン案。 B案:吊り屋根案。 C案:吊り屋根の変形。 D案:HPシェル案の4つの案である。 4案の構想段階は、2ヶ月という短期間で、夜の睡眠時間も惜しまず没頭し、構造のディテール模型と1/200の全体模型(25m×12.5m)をつくり、着陸直後の航空機の模型は天井から釣り糸で吊り上げた。 マハティール首相をはじめ、アンワール大蔵大臣など、マレーシア政府要人が来日され、結果D案:HPシェル案がその場で即決された。 コンサルタント・建築家・技術者・施工会社・メーカー・労働者・政府側公共事業者の特別チームとしてプロジェクトに関係した国は55カ国を数え、毎日3シフト24時間体制の工事は1日2万5000人の人々が働いていた戦場のような現場で、100kuという広大な土地なので、敷地全体を見通すことのできないほどの砂埃の中で作業が進行した。 マハティール首相にの建築に対する知識と熱意は深く、細かな点にも多くの指示をいただいたが、ただ一点、屋根の色彩についてのみ、意見が対立し、原案のシルバーグレーの屋根の色はダークグレーに変更されている。 (参考文献:新建築)